遡る事数分前。
私はネジを巻かれ、目を覚ました。

「え、ちょ、ちょっと……」

今度のミーディアムはどんな人間なのかしら?
アリスゲームをするには、あんまりひ弱だと困るわぁ……

「うわっ!えぇっ!?」

だって私はお父様のために、アリスになるんだもの……。
完璧なアリスに。

「うそ!マジ!?」

そう、完璧な……

「な、何!?何これ!?動いたし!!悪魔ぁああぁぁぁ!?」
「うるさいわねぇ……」

思いっきり壁際まで後ずさったまま、素っ頓狂な声を上げている。
彼女はどうやら、私の姿を見てパニックに陥っているらしい。
全く失礼しちゃうわぁ……。
「貴女が私のネジを巻いたんでしょう?」
「ま、ま、巻いたけど……でも何で人形が動いて……?」
信じられない、とでも言いたげな面持ちで私を見つめている。
「私は水銀燈。ローゼンメイデン第一ドール」
お父様がいちばぁん最初に作ってくれたのよ、と付け加える。
「は、はぁ…」
少し落ち着いたのか、彼女は正座して私の話を聞いていた。
――けど、すっごい猫背。
口もポカーンと開けちゃって……。
なーんか、見れば見るほど頼りなさそうなカンジぃ。
「……まぁいいわぁ。さっさとこれを指に嵌めなさい」
契約の指輪を差し出すと、一転して物凄く嬉しそうな顔。
「え、何これ!可愛い〜♪くれるの!?」
――何か疲れるわぁ。
鬱陶しいし、さっさと話を終わらせちゃいましょう。
私は手早くお父様の事、指輪の事、アリスゲームの事を話した。
「……わかったぁ?」
「な、なんとなく……」
ほけーっとした表情。
――ホントにわかったのかしら。
「要するに他のドールを全員倒して、水銀燈がアリスってのになれば……勝ち?」
「そう。まぁ、指輪の力なんてなくても十分戦えるんだけどねぇ……」
「おお、すごーい!」
じゃあさ、じゃあさと彼女が続ける。
「私が力を貸したらもっと強くなるの?」
「…貴女は死んじゃうかもしれないけどねぇ」
悪戯っぽく微笑んでみせる。
すると彼女は瞳をキラキラと輝かせて
「おおお!何か格好いい〜!!」
あっさりと即答。
「……え」
「だってだって、面白そうじゃない?」
そう言って、勉強机にポンと置かれた花の冠を手に取り、頭にちょこんとのせた。
そのまま踊るようにクルリと一回転。
「私ね、毎日が退屈なの。魔王とか勇者とか、何で面白そうな事は現実にはないんだろって思ってた。
……だからね、今すっごいワクワクしてるの!」
勇者のために犠牲になる仲間、ってのもお約束だしね!と楽しそうに言う。
「……変なヤツぅ」
彼女はケラケラと笑いながら、花の冠を私の頭にのせた。
そして大きく深呼吸。

「私の名前はゆず。よろしくね、水銀燈」

ゆずは静かに指輪を嵌めた。

 


「水銀燈も洗うの手伝ってよー」
ふてくされつつ食器を洗うゆず。
ゆずには家族がいないので、家事は全て彼女の仕事だった。
「やぁよ、面倒だもの」
――私が目覚めてから数日が経つ。
この時代、というかこの地域は平和そのもの。
戦争などとは無縁の静かな農村。
ゆずが毎日を退屈と言うのもわかる気がした。
ゆずの一日は極めて単純。
朝早くに起き、畑に向かう。
昼は近所の人とご飯を食べながら談笑する。
そして夜は速やかに就寝。
これの繰り返し。
――つまんないカンジぃ。
そして何よりつまんな〜〜〜〜いことが一つ。
調べてみてわかったのだけれど、この時代に目覚めているドールは……私以外にいないということ。
これはアリスゲームの不可能を意味する。
その事をゆずに告げたとき、彼女はとてもガッカリしていた。
――ホントに変なヤツぅ。
「あーあ、つまんなぁい……」
思わずため息をつくと、食器を洗う手を休めてゆずが寄ってきた。
「どうしたの?」
「だってこの村なぁーーーんにもないんだもの」
「あー、だよねぇ……」
うーん、と唸る。
鼻に泡をつけて考えこむ姿は、何ともマヌケっぽい。
「…じゃあさ」
少し間を空けてゆずが言った。
「明日お弁当もって丘の方まで行かない?」
「丘?」
「この村のはずれに小さい丘があるんだけどね、すっごい綺麗なの!景色が」
まるで今もその景色を前にしているかのようなハシャギよう。
ゆずはいつもこんな感じだ。
良い事があった時は、心から喜んで。
悲しい事があった時は、まるで世界が終わったかのような落ち込みぶり。
バカ正直というか裏表がないというか。
「……そんな所私が行くと思う?」
「えー……」
途端に表情が曇る。
「こんな村の景色なんてど〜でもいいわぁ…」
ほら、もう泣きそうな顔。
「別に貴女のこと好きじゃないしぃ。行きたいなら一人で行けばぁ?」
これがトドメ。
一瞬声を詰まらせる様な仕草。
そして、涙を隠すように部屋を飛び出して行った。
――つまんなぁい。
もうちょっとイジメてあげようかと思ったのにぃ…。
夜の散歩にでも行こうかしら。
そう思って窓に手を掛けたとき、ゆずが戻ってきた。

――少し大きめのハンドバッグを持って。

ゆずは私に脇目も振らずに、ハンドバッグに物を詰め始める。
大小様々な荷物をテキパキと手際よく押し込んでいく。
(……何やってるのかしら)
何か言ってやろうかと思った時、突然ゆずがこちらを振り向いた。
「水銀燈!」
「な、なによ……」
その鬼気迫る表情に思わずたじろぐ。
するとゆずは、つかつかと私の元に歩いてきて、ハンドバッグを突き出した。
「明日は一緒に行くんだからね!」
「やぁよそんなの……」
「い」
「く」
「の!!」
アップで迫られる。
……。
この数日でわかった事がある。
ゆずは一度言い出したら……きかない。


翌日、朝早くに家出た。
ゆずは私より早くに起きてお弁当を作っていたらしい。
それはいい。
けれど何で……
「……何で私がこんな扱いなワケぇ?」
ハンドバッグの中、お弁当の重箱の上にちょこんと座らされる私。
「だって水銀燈が歩いてるのを見たら、村のみんなが驚くでしょ?」
だから村のはずれまではそこね、と笑う。
「……お弁当が生温かくて気持ち悪いわぁ」
「あははっ、我慢しなさ〜い!」
そう言って笑うゆずの顔は、とても嬉しそうだった。

「……だらしないわねぇ」
山道に入ると、三十分もしないうちにゆずが音を上げた。
「す……水銀燈……羽根ずるい……」
私の翼を指差し、息も絶え絶えに呟く。
「貴女体力なさすぎよぉ」
普通、毎日の畑仕事で鍛えられてそうなものなのに……。
私が地面に降り立ったのを見て、ゆずが切り株の上に腰を下ろす。
「自分は飛んでて楽してるクセにぃ〜」
ハンドバッグをがさごそと漁りながら言う。
「……別に歩くのも飛ぶのも大差ないわよ」
「水銀燈お茶飲む?」
話聞きなさいよ……。
返事をするより早く、ゆずが私の分のお茶を用意していた。
仕方なく受け取り、口にする。
「……ぬるいわぁ」
とてもぬるかった。
「だよね。うっかり家出る時氷入れ忘れたよ」
ニヤニヤしているゆず。
「貴女わかってて飲ませたのねぇ……」
「このぬるさは一人で味わうには勿体無いのでございます」
しばし二人でぬるいお茶をすする。
「しっかし、水銀燈はいいなぁ。羽根があって……」
羨望の眼差しで翼を見つめるゆず。
「……そうかしらぁ」
「格好いいし飛べるし……」
「でも日光を吸収しそうだよね。夏は暑そう」
何かムカっときたので、翼で軽く頬をペシッと叩いてやる。
「え、な、何!?」
「ふふふっ、ばっかみたぁい……」
怒って私を捕まえようとするゆずの手を掻い潜り、空へ逃げる。
「あーあ、早くしないと日が暮れちゃうわぁ」
これだけ休めば呼吸も整ったでしょう。
ゆずを置いて山道を進む。
「え、ちょっと!飛べるんだから背中に乗せてくれたっていいじゃーん!!」
「やぁよ、貴女重そうだもの」
「重くないっ!!」

ゆずは途中何度腰を下ろしただろう。
あれから二時間程歩いて、やっと目的の半分の距離まで来たらしい。
まだ思いっ切り山道だけれど、ゆずがとうとう白旗を揚げたので、昼食を兼ねて休憩することにした。
「さてさて、お待ちかねのお弁当ですよ……ってアレ?」
ハンドバッグを漁るゆず。
その表情がどんどん焦りの色に染まっていく。
「えー……ヤバ……マジで〜……」
ハンドバッグの中身を全てひっくり返したゆず。
ちょっと泣きそうな顔。
「水銀燈……お弁当どっかに落としたかもぉ……」
「……それは大変ねぇ」
オロオロとしているゆずを尻目に、玉子焼きをほおばる。
「……って水銀燈、それはまさか……」
「あら?何のことかしらぁ」
とぼけてみせる。
「いつの間に取ったんだよぉ!もう、早く言ってよね〜……」
プンプンとハンドバックの中身を元に戻すゆず。
っていうかちょっとは考えなさいよ。
こんな重箱、どうやったら落とすんだか……。
「ぬるいお茶の仕返しぃ」
「逆恨みじゃーん……」
ぶー、っとふてくされるゆず。
それにしても、ゆずのお弁当って変わってるのね。
何だか見た事のない食べ物がいっぱいあるわぁ……。
「……これなぁに?」
黒くてにょろにょろした線みたいな……。
「それはひじきの煮物。おいしい?」
「……何か変な味ぃ」
そう、変な味。
変な味だけど……温かい。
「むぅ。じゃあさじゃあさ!これ食べてみてよ♪」
物凄く怪しい顔をして差し出したのは、何だか赤くて丸いしわしわの粒。
つくづく隠し事の出来ない顔ね、と思った。
私はそんな手には引っかからない。
逆にその粒をゆずの口内に投げ込んでやった。
するとゆずは一瞬顔を窄めて、すぐ笑顔に戻る。
「うん、美味しいよ!」
「……あら?」
何かあると思ったのだけれど……気のせいだったのかしらぁ?
「ほらほら、食べてみて?」
今度は無理やり口に押し込まれる。
「何よこんな………のっ!?」
一瞬で口内に広がる凄まじい酸味。
思わず顔を歪める私を、ゆずは指をさして大笑いしている。
「あっはははは!出しちゃダメよ?ちゃんと食べてね〜っ!!」
「なっ…なんなのよこれぇ……」
「これは梅干っていうの。日本人はみんな大好きなのよ?」
こんな酸っぱい物が好きだなんて……。
……日本人ってわかんなぁい。

ごくん。

「あ」
「え?」
ゆずがしまった、という感じで私を見つめる。
「……飲んだ?」
「……何が?」
「たね」
「出しちゃダメって言ったじゃなぁい」
するとゆずはバツが悪そうに小声で言った。

「た、種は……飲んじゃダメ」

私は翼でゆずの頬を引っぱたいた。


「やっと……ついたぁ」
再び歩くこと二時間、やっと頂にたどり着いた。
ゆずはぐったりと草の上に寝転がっている。
――ホント軟弱ねぇ。
一人で村を見下ろしてみる。

――全然大したことない。
いつも空から見ている景色と何ら変わりはなかった。
自然とため息が出た。
すると突然後ろから抱きしめられる。
「な、なによぉ?」
「へへへ〜」
ゆずは悪戯っぽく笑うと、私の髪に一輪の花を挿した。
真っ白で雪のような花。
「からたちの花、だったかな?あっちに咲いてたから取ってきちゃった」
私のおでこをちょんと小突き、可愛いよと笑う。
急にそんな事を言うものだから、少し照れくさくなってそっぽを向く。
「どうだった?ここから見る景色」
「……別にぃ」
「そう?私は好きだけどな〜」
あれが牛乳屋さん、あそこが谷口さんの家…で、私の家は〜
村を見下ろし、自分の家を探すゆずはとても楽しそうだった。
私は別に景色を見ても何とも思わなかった。
けれど、ゆずの顔が余りにも嬉しそうだったから……。
――悪い気はしなかった。

「ずっとこの村にいたいなぁ……」

何気なく言ったゆずの一言。
突然何を言うのかと思ったけど、その時は訊き返す事が出来なかった。
自分の影を見るように俯いたゆずは、泣きそうな顔をしていたから。

「帰ろっか」
ゆっくりとゆずが顔を上げる。
私はそっとゆずに寄り添う。
「……そうね」


それから私達は、休みの日になる度どこかへ出掛けた。
いろんな場所へ行っては、ゆずとくっだらない話をする。
ただそれだけ。
――けれど不思議と退屈はしなかった。
それどころか、微かに心地よさすら感じていた。
ゆずの指が髪をすいてくれる。
ゆずの腕が優しく抱いてくれる。
ゆずの言葉が私を笑わせてくれる。
私が笑うと、ゆずも笑う。

一緒にいて心の安らぐ人。
いつの間にか。
本当にいつの間にか。
ゆずは私の大切な人になっていた。

けど。

だから。

だからこそ私は……。

一番近くにいたからこそ、気づいてしまっていた。

ゆずが時折見せる泣きそうな顔。

そして……


――ゆずの体調の僅かな変化に。

 

二人で丘に登ったちょうど一月後、ゆずは倒れた。
部屋の隅に座り看病に来た村人の話を聞いていると、いろいろな事がわかった。
ゆずは生まれつき体が弱いこと。
両親を流行り病で亡くし、ゆずもその病に冒されていること。
――そして、病が既に末期だということ。

話し声で目を覚ましたのだろう。
目をこすりながら、ゆずが布団から起き上がる。
「ゆずちゃん大丈夫?痛い所とかない?」
「……うん。ごめんね安田さん、心配させて」
「お前あんま身体丈夫じゃねぇんだから、無理すんなよな」
「あはは。サトくんもごめんね、私もう大丈夫だから」
両手をぶんぶんと振り回してアピールする。
――が、少しして咳き込んでしまう。
「大丈夫。ごめんね、ホント大丈夫だから」
ちっとも大丈夫そうには見えなかった。
その後もしばらく村人と談笑をしていたゆず。
顔色は良くなかったが、何だかとても楽しそうだった。

やがて日も落ち村人達が帰ると、ゆずが私の元に寄って来て呟く。
「ビックリした?頑張ってバレないようにしてたんだけどなぁ……」
ゆずは困ったように笑った。
「…おばかさぁん。あれで上手く隠せてたつもりだったのかしらぁ?」
「あはは、鋭いなあ」
笑っているゆずを見て、ふと寂しさに襲われた。
後どれ位この顔を見ていられるのだろう。
いったい後どれ位一緒にいられるのだろう。


日に日にゆずの体調は悪化していった。
初めの内は起きてご飯を作ったりしていたのだけれど……。
今ではほとんど寝たきりになってしまった。
「でね、サトくんバカだからホントに根っこまで食べようとしちゃって」
ゆずは最近よく村の事を喋るようになった。
「……そう」
それはとてもくだらない話。
石田さんが泥で転んだ、とか屋根の雨漏りを村のみんなが直してくれた、とか。
とても些細な出来事、何でもない話を、ゆずは本当に楽しそうに語る。
自らの思い出を確認するように。
少しずつ、少しずつ。
私は毎日それを聞いてあげる。
私の中にゆずが生きている事の証を刻むために。
話の途中で激しく咳き込むゆず。
横になったまま、苦しそうに顔を歪ませて。
台所から水を持ってきて、ゆずに飲ませてあげた。
コップを片付ける時、ふと目に入る。
ゆずの枕元に少し血の染みが出来ていた。
「やだなぁ……」
ゆずの頬を一筋の涙が流れた。

気づいたことがある。
ゆずは私に一つだけ嘘をついていた。

『私ね、毎日が退屈なの』

毎日が退屈だったワケじゃない。
本当は毎日がとても楽しくて、楽しくて。
でも自分の身体の事をわかっていて。
本当はこのままでいたい。
ずっと生きていたい。
でもこのままだと、最後の最後で悲しい思いをしそうだから。
最後のその時でも、もっと生きていたいって思ってしまいそうだから。

だから私が現れたとき、ゆずはこう考えた。
私のために、自分の命は使われるんだって。
私がアリスになるため、指輪を通じてゆずの力を使い切ってしまったから。
だからゆずは終わってしまった。
そう。
それは仕方ない事なんだって。
割り切るために。
諦めるために。
勝手にそう思おうとしていた。
けれど、そんなゆずの小さな願いも叶う事はなかった。

とうとう二日前から、起き上がる事すら出来なくなってしまった。
日に日に弱っていくゆず。
その姿を見るのは辛かった。
少し前まで一緒に遊びに行けたのに。
ゆずはあれだけ私に尽くしてくれたのに。
弱っていくゆずに、私は救いの手を差し伸べてあげることが出来なかった。
「ねぇ、水銀燈」
「……何?」
訊き返した私に、ゆずは静かに言った。
「ごめんね」
それはとても小さな声。
「……何で謝るのよぉ」
意味を図りかねている私。
ゆずはゆっくりと話を続ける。
「初めて会ったとき…私、水銀燈のこと悪魔って……」
別に謝られるほどの事ではない。
この姿を見てそう思うのは、ごく自然なこと。
そしてその答えも決して間違いではない。
「私がそんなこと気にするとでも思ったのかしらぁ…?」
だって……と微笑むゆず。
「だって水銀燈はホントは……」

 

「天使だったんだよね」

 

そして、ついにその日が来てしまった。

朝から高熱にうなされ、とても苦しそうなゆず。
村人達の表情を見れば、それが何を意味しているかわかる。
「ゆず……」
村人が席を外した隙を見て、ゆずの側に寄り添う。
「すいぎん……とう……?」
ゆずはとても辛そうな顔で私を見つめる。
言葉が出てこない。
そんな目で見つめないで。
そんな顔しないで。
「……あれ、可愛かったよね……」
「……え?」
ゆずが手を伸ばして、私の髪を優しく撫でる。
「水銀燈がお花の簪……からたちの花をつけて……」
そこまで言うと咳き込んでしまう。
「ゆず!」
「もっかい……見たかったなぁ……」
そう言って寂しそうに微笑んだ。
「……なら取ってきてあげる」
私が言うと、ゆずは少し驚いたような顔をした。
続けて何かを言おうとしたようだが、すぐにその言葉は飲み込まれた。
――そろそろ村人が戻ってくる頃。
急がないと。
私は窓に手を掛けた。
「あ、水銀燈…」
「……なに?」
ゆずは私の瞳を真っ直ぐ見つめて、微笑んだ。

「いってらっしゃい」

「……すぐ戻るわ」
私は窓から飛び立った。
花をゆずの元へ持ち帰るために。
あの笑顔をもう一度見るために。
早く、一刻も早くあの丘へ。

(早く……)

『いってらっしゃい』
そう言って微笑んだゆずの顔は何だか……。
――最後のお別れを言っているように見えたから。

やっとの事で頂にたどり着く。
一月前に二人で訪れた場所。
ゆずと二人でお弁当を食べ、町を見下ろした場所。
『からたちの花、だったかな?あっちに咲いてたから取ってきちゃった』
あの花は一体どこに咲いていたんだろう。
早速ゆずの言っていた花を探す。

 

――ない。

 

何でないのよ……!
早く、早く戻らないといけないのに……
焦る気持ちと裏腹に、日が沈んでいく。
そして、日が姿を隠す直前。

「……あ」

一輪。
たった一輪だけれど、見覚えのある白い花。
ゆずが私にくれた……からたちの花。
私はその花を大事に摘み取ると、ゆずの元へと急いだ。

ゆずはこれを見て喜んでくれるかしら。
また可愛い、って笑ってくれるかしら……。

ゆずの家についた時には、もう外は真っ暗だった。
「ゆず!」
乱暴に窓を開け、ゆずの枕元へ。
目を瞑り横になっているゆず。
「一輪だけ見つけたわよ。結構大変だったんだからねぇ」
ゆずの反応はない。
「……ゆず?」

 

嫌な予感。

 

そっとゆずの手をとる。
怖い。
見るのが怖い。
知ってしまうのが怖い。
恐る恐る、ゆずの指に目をやる。

 

 

 

 

契約の指輪は既に消滅していた。

 

 

 

 

私は静かにため息をついた。
まるで眠っているみたい。
ゆずの手、まだ温かい。
ゆずの髪をそっと撫で、からたちの花を挿してあげた。
「綺麗……」
まるで……そう、天使のよう。

『天使だったんだよね』

そんなワケない。
私は天使なんかじゃない。
天使だったら、こんなこと……
こんなこと……


「……ホントにおばかさぁん」

 

 

――

 

 


なによ……

なによなによなによ……

私まだ言ってないじゃない……

 

「ただいまって……言ってないじゃない……!」

 

涙が頬を伝って、落ちた。

 

 

何でゆずは命を落とさなければいけなかったのだろう。
ただ何気ない日々を
毎日を精一杯生きていたいだけ
ただそれだけだったのに。

何でだろう。

何で私はこんなにも無力だったんだろう。

何で私は天使じゃないんだろう……

 

 

 

どれだけの時が流れたのか。
あれから私は一度もネジを巻かれる事はなく
ただ目覚めの時が来るのを
何も考えず
何も思い出さず
全てを忘れようとして……

『よろしくね、水銀燈』

――。

けれど

忘れてしまうには

あの日々は

あまりにも鮮やかで

あまりにも繊細で

いつまでも見ていたいほど

その景色は優しくて

私はずっとそこに留まる事を望んだ

 

そんな時 声が聞こえた
誰かの声
優しい歌声
その声に導かれるように 私は目覚めた

そこは病室のベッドの上。
殺風景な白い部屋。

「貴女が私のネジを巻いたのぉ?」

見るからに身体の弱そうな人間。
否応にも、あの姿を思い出す。
当の本人はというと、私の姿を見て言葉を無くしている。
「つまんないカンジぃ……」
そんな私を見て、彼女は静かに
けど確かにこう言った。

 

「……天使?」

 

それはとても優しい声。

「こんな真っ黒い天使がいるわけないじゃない」

そう。
私は天使じゃない。
天使になんかなれない。

「……まぁいいわ。さっさとこれを……って」
「あ……ご、ごめんなさ……」

彼女の瞳から涙が次々と溢れていた。
何故泣いているの。

「へ、変だよね……なんか……懐かしくて……」

ホントに変なヤツ。
私は貴女と会った事なんか一度もない。
一度も……。

「……」

心によぎった考えを、打ち消す。
そんなはずない。
少し似てるだけ。

けれど本当はもうわかっていた。
一目見て気づいてしまった。

「あ、あのね……」

彼女は涙を流しながら
私の瞳を真っ直ぐ見つめて

「初対面で…こんな事言うの……変なんだけど……」

抱き寄せられた。

 

 

 

 

 

「おかえりなさい……」

 

 

 

 

 

この感じ
この温かさ
忘れるはずない
ずっと会いたかった
寂しかった
――やっと会えた

胸に溢れる想いを

たった一つの言葉にのせて

 

「……ただいまぁ」

 

止まっていた時間が再び動き出す
心の隙間を埋めるように
少しずつ、ゆっくりと

 

 

 

 

『また会えたね、天使さん』

『相変わらずとろいのね。おばかさぁん』

 

 

 

 

二人を優しく包んで……。

 

 

 

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