少女は傷ついた小鳥に手を差し伸べました。
けれど小鳥は手に止まろうとしません。

少女は傷ついた小鳥に「おいで」と言いました。
けれど小鳥は飛び去ってしまいました。

少女は「どうして?」と涙を流しました。
小鳥は少女の手を血で汚したくなかったのです。

                Frederica Bernkastel

 

夕日の差し込む放課後の教室。
終業のチャイムはとうの昔に鳴り終え、生徒は皆下校していた。
そんな中、この教室で五つの人影が佇んだまま微動だに動かない。
それらは談笑をするでもなく、ただ無言。
窓際に一人、夕日を背にする形でぽつんと立っている梨花。
他のメンバーがそれを囲むように立ち尽くしている。
重々しい雰囲気の中、誰一人言葉を発さず。
発する事が出来ず。
まるでこの空間だけ音を全て切り取ったかのように、教室は静寂に包まれていた。
やがてこの雰囲気に耐えかねたのだろう。
沙都子がおずおずと口を開こうとしたが、それを魅音が制した。
不安を浮かべた表情で魅音を見つめる沙都子。
魅音は無言で首を振った。
話してくれるまで待とう。
その意図は伝わったらしく、沙都子もそれ以上は何も言わなかった。
誰も口にはしなかったが、この光景は一年前のそれとよく似ていた。
中心にいた人物こそ違えど、それらを包む声無き涙の霧が。
空気が。
あの時と酷似していたのだ。
だからこそ彼らは、一層慎重にならざるをえなかった。
梨花はしばらくの間考え込むように俯いていたが、やがて顔を上げ重い口を開いた。
「本当に……いいのですか?」
戸惑いを秘めた声。
聞いてしまったら、皆も巻き込まれる。
やめるなら今のうち。
そんな意味を含んだ悲しい確認の言葉。
けれど、そんな確認すら無意味なものであった。
彼らの心は同じだから。
互いに顔を合わせ探り合うまでもなく、それぞれが自らの強い意志で頷いた。
梨花はそれを見届けると、小さくため息をつく。

そして、ゆっくりと話し始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

ころころころ。
ぐるんぐるん。
――ガッ

「あ」

ゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴン!
小気味良い音を立てて階段から転がり落ちる。
床に全身を強打してしまった。
体中がズキズキと超痛い。
「……やはりこれは無謀だったか」
今更ながら自分の浅はかさに失望する。
ここで俺が何をしているかについての説明をしよう。
俺は今朝夢を見たのだ。
夢の中ではオヤシロ様が枕元に立っていて、俺に向かってこう言った。

「今日一日でんぐり返りをして過ごしなさい」

それだけ告げると、霧散する様に消えてしまうオヤシロ様。
残された俺は呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。
そこで目が覚めた。
で、寝起き早々でんぐり返りをしたら階段から落ちてしまったと。

「ということでご飯床で食べるよ」
「溢さないでね」

ごろごろと転がりつつ鮭おにぎりを口に入れる。
でんぐり返りをしつつ食事を取るには、床でなければ不可能だ。
何も突っ込まずに料理を床に置いてくれる母さんは偉大だと思った。
「クッ!みそ汁が強敵だぜ!!」
米はおにぎりにすればいい。
しかし転がりながらみそ汁椀を持とうものなら、大惨事になってしまう。
どうする圭一!クールになれ圭一!

「母さん今日はみそ汁いらない」
「そう。気をつけていってらっしゃい」

泣く泣くみそ汁を諦め、玄関へ。
ごーろごーろ。
靴を履き、いざ外界へ!

ゴリッ

「ぐはッ!」

外界での初回転直後、背中に刺さるような痛み。
今しがた転がった道を見て絶句する。

小石。

そう、家の中では心配せずに済むもの。
それは障害物…!
しかし外界では常に地面を気にしなければならない。
小石、ゴミ、それ以外にも危険物がいっぱいだ!
でんぐり返りには細心の注意を払わなくてはならない。
慎重に、クールに俺は転がり出した。

やがてレナとの待ち合わせ場所につく。
「圭一くん!今日は何だか小さいね?」
「そりゃそうだ。丸まってるからな」
笑いながら転がる。
ちょっと背中が汚れてきた気がしなくもない。
破れてなきゃいいんだけど。

そうこうしている内に魅音と合流。
「よっし!じゃ、行こうか〜」
二人とも俺が転がってる事に対して、何も突っ込みはないんですね。
ちょっと切なくなりつつ道を転がる。

しばらくゴロンゴロン転がっていると、向こうから車が走ってきた。
「圭ちゃん避けないと危ないよ!」
「わかってる!」
頭ではわかっている!
わかってはいるが、目が回ってどこに転がればいいのかわからん!!
おろおろとその場を八の字回転。
いよいよ車が近づいて来た時、レナが俺を思いっきり突き飛ばしてくれた。
ごろごろごろ。
「サンキューレナ!」
ごろごろごろ。
「あ、圭一く……」

ボチャッ!

「え」

田んぼに落ちた。
完全に泥だらけだ。
こりゃ洗濯が大変だ……。
だがそんな事より問題なのは

「ガボッ!グァッ!」

息ができん。
この田んぼは水位がとても高かった。
脱出しようと必死に転がるものの、泥で上手く進めない。
畜生苦しいぜ!
「圭一くん!」
レナが俺に向かって手を伸ばしてくれた。
俺はその手を取っ……
「グバァッ!」
畜生、転がりながらじゃ手が出せねぇ!
目に泥が入って痛い!
口に泥が入ってマズイ!
絶体絶命だぜ前原圭一……!
「圭ちゃん何やってんの!早く手を取んなよっ!!」
俺だって取りたいわッ!!
だが手が使えない以上どうしようも……。

――!!

その時俺の銀色の脳細胞が活性化した。
手が使えなくても何とかなる。
そうだ、手が使えないなら……。

「跳ぶッ!!」

思いっきり地面を強く蹴りつけ、歩道へ復活!
しかし俺はこの時点で重大なミスを犯していた。
一語で表すとこうだ。
強すぎた。
俺の華麗なるジャンプは、先程通り過ぎた車を追い越し……
「圭一くん!」
「圭ちゃん!」

「はぐわッ!!」

あわや車に激突という所で、突如飛来した謎の物体に弾かれた。
くるくるときりもみ回転しつつ、勢い良く地面に叩きつけられる俺。
全身の骨が砕けたんじゃないかと思うほどイテェ。
「もう!圭一さんの危なっかしさは天下一品ですわね!」
耳を劈くような声。
続いて頭をなでなでされる。
「みー。危ない危ないなのです」
「沙都子に梨花ちゃん……?」
ということは。
先程俺にぶつかった物は……。
――やはりか。
道に金ダライが落ちていた。
「なるほど。不本意だが助かったぜ」
改めてごろごろ転がりつつ礼を言う。
「って、あれ?沙都子、いつもの二人は一緒じゃないのか?」
「みー。学校サボってホテルでらぶらぶなのです」
「り、りりりりりりりりり梨花ぁ!いくらなんでもそれは絶対にありませんわっ!!」
ちょっと涙目の沙都子。
――まぁ、何があったかは大体予想がつくけどな。
昨日の試合、ここ一番で打てなかった事に対してのスパルタ特訓ってとこだろう。
扱かれて困った顔してるアイツの顔が容易に浮かぶ。
ちょっと同情。

「さ、早く行かないと遅れちゃうよ?」
「そうだな」

俺は転がる。
皆と共に、学校に向かってごろごろと。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……みー。これで終わりなのです」
緊張をほぐす様に、にぱーっと微笑む。
対して他のメンバーはポカーンと呆けていた。
皆梨花の話の意味がわからず、何を言っていいのか測りかねている様子だ。
「昨日寝ずに考えたお話なのです。面白くなかったですか……?」
少し俯き加減で、残念そうな顔をする梨花。
それを聞いて一気に緊張が解けたのか、皆の表情から不安の色が消えていった。
そして、窮屈な檻から出されたばかりの動物のように騒々しく沙都子が叫ぶ。
「り、梨花ぁ!急に『真剣な話がある』なんて言うから、何かと思って聞いてれば……っ!!」
「真剣に作ったお話なのです。静かに聞いてて偉い子なのですよ」
梨花は笑顔で沙都子の頭を撫でた。
何度も、何度も。
頭を撫でられた沙都子は、怒りたいやらホッとしていいやら。
複雑な顔でジタバタともがいている。
「でもホントに圭一君が転がってたら……はぅ!おもおもお持ち帰り〜っ♪」
「持ち帰んな!つーか離せこら!レナぁ!!」
圭一がレナの魔手から逃れようと必死に足掻く。
しかし抵抗も空しく、ガッチリ確保されてしまった。
恍惚を浮かべた表情で圭一を抱き上げ、クルクルとその場を回るレナ。
抵抗しつつも、笑顔を浮かべて軽口を言う圭一。
沙都子も魅音も、それを見て楽しそうに笑っている。

 

 

いつも通りの風景。
皆で楽しくふざけて、笑って……。
ふと、目の前の光景が、一枚の写真を透して眺めているような感覚にとらわれる。
こみ上げてくる、堪えきれない感情の波。
ゆらゆらと渚で揺れるその水滴を隠すように、私はそっと輪から離れた。

「……あら梨花、どこに行くんですの?」
廊下に出ようとした所を、沙都子に呼び止められた。
「みぃ。お手洗いなのです」
私は皆に背を向けたまま、告げる。
語尾が少し震えてしまい焦ったが、幸いにも感づかれる事はなかったようだ。
「そ。じゃあ、おじさん達はその間に部活の準備でもしますかっ!」
おー!と力強い声を背に、私は教室を出た。

誰もいない事を確認し、個室のドアを閉める。
金木犀の香りの芳香剤がヤケに鼻につく気がした。
『……ボクはでんぐり返りをしろ、なんて言わないのです』
肩越しにボソっと呟くような声。
少し不満を含めたその言葉からは、膨れっ面の羽入が容易に想像できた。
「ふふふ、そう?羽入なら言っても違和感全然ないんだけど」
『あぅあぅ……』
羽入の予想通りの反応が可笑しくて、クスクスと笑う私。
そんな私の顔色を伺うかのように、羽入はしばらくの間あぅあぅ呻いていた。
しばらくして、羽入が何か言いたげな視線で私を見つめているのに気づく。
羽入が言おうとしている事は、聞かずとも既に分かっていた。
けれど、私は思わず背を向けてしまう。
そんな私を見かねたのか、羽入が静かに話を切り出した。
『……ねぇ梨花』
「何?」
羽入の声色は先程と一転し、真剣みを帯びていた。
背後から、何度も言いかけてやめる様な不規則な息遣い。
声をかけたはいいが、続きを言うのを躊躇っているのだろう。
しばし流れる無音の空間。
やがて羽入が、意を決してその言葉を口にした。

『……助けを求めたりはしないのですか?』

それは悲しい言葉。
自らの運命に立ち向かうために、たった二人が出来る限られた選択肢の一つ。
けれど、語尾はほとんど空に溶けてしまいそうにか細いものだった。
恐らく、羽入も既に分かっている。
「……二つ前の世界を覚えてるかしら?」
「あぅあぅ……」
「そういうこと」
羽入が何か口にしようとしていたが、「しっ」と声を潜めた。
誰かが廊下を歩く音が聞こえる。
そしてその音がこちらに近づいている事に気づき、私達は会話をやめた。

二つ前の世界。
その世界で私は今日、あの教室で、皆に助けを求めた。
自分が命を狙われている事。
でも犯人が分からない事。
そしてその日が、私が殺される日が、恐らく今日である事を話した。
けれど皆は、聞けば自分の身が危うくなると知りつつも、私の話を真剣に聞いてくれた。
それだけじゃない。
力を合わせて私を守ってくれるって。
絶対にそんな事させないって言ってくれた。
こんな風に思っては不謹慎だけど……嬉しかった。
もしかしたら。
もしかしたら、今度は……なんて思ったりもした。

でも……。

遠ざかっていく足音。
それを聞き届け、もういいわよと羽入に合図をする。
羽入は神妙な面持ちで私を見つめていた。
私はため息をつき、確認するように呟く。
「私はもうすぐ殺される。また今回も」
『……はい』
羽入が力なく項垂れた。
私たちは今回もこの呪縛を破る事が出来なかったのだ。
昭和58年6月という、終わりのない無限回廊。
永遠に繰り返される輪舞曲。
その予定調和を乱す事は、今回も叶わなかった。
「なら、せめて……」

 

 

 

「最後はみんなで笑ってたい」

 

 

 

笑顔で言うつもりだった。
そして、それを見た羽入が「あぅあぅ」って困った顔をして……。
けれど不覚にも涙が零れてしまった。
涙の理由も至極単純。
死にたくない。
ずっと皆と、幸せに生きたい。
ただそれだけ。
それだけなのに、叶わない。
『……最後だなんて言わないでください』
羽入が手を伸ばして、頬を伝う涙を拭おうとする。
けれどその手は私に触れることもなく、空をきった。
それでも羽入は私の頬に手を当ててくれていた。
しばらくの間、私が泣き止むまで。

 

『梨花、そろそろ戻らないと皆心配しちゃいますよ』
私が落ち着くのを見計らって、羽入がやんわりと言った。
「……そうね」
服の袖で目元を拭い、個室から出た。
何故か羽入がやたらとこちらを見て笑うので、何かと問いただしたところ、顔を指差された。
入り口の洗面台にある鏡を覗き込むと、鏡に映った私はまるでウサギみたいに真っ赤な目をしていた。
『くすくす……そんな顔してったら笑われますですよ』
「……うるさいわね」
少し恥ずかしくなり、ぶっきらぼうに言う。
蛇口を捻ると勢い良く流水が飛び出した。
私はそれを手にすくって、数回バシャバシャと顔を洗う。
これで涙の痕は流せただろう。

『梨花』

ハンカチで顔を拭いていると、羽入が心配そうに話しかけてきた。
私は次の言葉を聞く前に、羽入に自らの意思を告げる。
「……わかってる。私は諦めない」
それを聞いた羽入は、安心した様に微笑んだ。
『そうです。きっといつか、皆で笑って過ごせる世界に辿り着けます』
私と羽入は顔を合わせ、頷きあった。

誰もいない廊下を歩く。
ゆっくり、ゆっくりと。
一歩一歩、この世界のエンドロールを惜しむように。
やがて教室の前に着いた。
中からは賑やかな仲間の声が聞こえてくる。
この扉を開けば、またいつも通りの幸せな日常が待っている。
そして、この世界では最後の幸せ。

(……絶対に)

私はゆっくりと教室の扉を開く。
大切な仲間が、笑顔で私を迎えてくれた。
私も笑顔でそれに答える。

 

「みぃ。ただいまなのです☆」

 

 

絶対にいつか、この幸せを永遠のものに。

 

 

 

 

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