目をぎゅっと瞑って、今夜何十回目かの寝返りを打つ。
足元の辺りでぐしゃぐしゃになっているタオルケットを引き寄せて、お腹に掛けた。
そのまま何も考えず、意識を沈め、私は眠りの世界へと旅立つ。
「……うー」
しかし夢の入り口への電車は既に発車した後だったらしく、私は乗り遅れてしまったみたい。
瞳を見開くと視界は既に冴え渡っており、意識は完全に覚醒していた。
次発をジッと待てる程私の気は長くない。
少し気だるい体をゆっくりと起こし、一息つく。
全身に心地よい疲労感はあるのだが、頭がイマイチそれを理解していないらしかった。
眠れない原因は自分でもよくわかっている。
それを羽入辺りに言おうものなら、絶対に笑われるだろう事は想像に難くないけれど。
だって自分でも可笑しいもの。
明日が楽しみで眠れない――なんてね。
今日はとても楽しかった。
皆で興宮の市民プールに行って、たくさん泳いできた。
泳いだといっても、私をはじめ沙都子や羽入は泳ぎが苦手なので、時間の大半を圭一やレナに手取り足取り習う事に費やしてしまったけれど。
それでも、楽しかった。
沙都子はめきめきと上達して、今度はクロールにも挑戦してみるなんて言っていた。
羽入は未だに水の中で目を開けられないみたいだけれど、まあその内出来るようになるだろう。
私だってバタ足の息継ぎが少しだけど出来るようになった。
今年の夏中には二十五メートル泳げるようになりたい。
なりたいというか、きっとできる。
だって、私達は明日もプールへ行く約束をしたんだもの。
明日こそは十五メートルの黒線を超えられるかしら?
沙都子はクロールが上手く出来るかしら?
羽入も少しは上達するかしら?
レナは、魅音は、詩音は、圭一は――。
なんて事を考えると、もう気持ちが昂ってしまって眠れない。
子供じみているのは分かっているのだけれど、でも、実際楽しみなんだから仕方ない。
それに、私はまだ子供なのだし。
だから私は、このワクワクした気持ちを目一杯楽しむのだ。
その結果、連日寝不足気味になってしまっているが……けれど、それも含めて私は楽しむ。

私や羽入にとって八十三年の六月末以降の世界は、正に未知の世界。
体験してみて初めて知る事や、気づく事がたくさんある。
夏がこんなにも暑いことや、カンカン照りの日に食べるかき氷の美味しさ。
そして、そんな日に皆で入るプールがどれ程気持ちいいものなのか。
私はこんな簡単な事ですら、長い事忘れてしまっていたらしい。
その世界では一日一日が本当に貴重で、毎日が発見の連続だ。
例えその一日の中に、どれだけ大変な事があっても、苦しい事があっても……いつも皆が傍にいる。
今日だけじゃない、明後日も、明々後日も。
ずっとずっと、皆と一緒。
皆と一緒に、私は続いていく。
それが嬉しくて、幸せで、決して一日だって無駄には出来ない。
だって、皆と過ごした日々の全てが私の大切な宝物になるのだから。
夏はまだ始まったばかり。
ああ、明日が本当に楽しみだな。
「……っ」
期待に胸膨らませ、自然に漏れ出してしまう笑みを堪える。
声を出したら二人が目を覚ましてしまうかもしれない。
……この調子じゃ、とても朝までに眠れそうにないわね。
少し夜風にでも当たって気分を落ち着けないと。
二人を起こさないように、そっと窓際に移動する。

「あら」

そこで私は、思わぬ収穫を目にした。
カーテンの隙間から覗いた空には、とても綺麗な満月が出ていた。
思わず感嘆のため息をついてしまう。
闇夜に映える艶麗な満月。
その艶やかなフォルムに一瞬で魅了されてしまった私は、この機をより楽しむための道具一式を引っ張り出すことにした。
一式といっても、その実用意するのはたったの二品。
押入れに隠しておいた秘蔵の赤ワインと、それを注ぐマグカップ。
容器がマグカップなのは、別に何か拘りがあるという訳ではない。
本当なら専用のグラスの一つも欲しいところなのだが、飲酒の機会も減ってきた今、それだけの為に買うのは何だか勿体無い気がして、結局いつもマグカッ
プで済ませてしまうのだ。
どうせ飲む時はいつも一人なのだし、器なんか気にしたって仕方がないわよね。
ワインのコルクを抜いて、トクトクとマグカップに中身を注いだ。
カップの内側に描かれている探偵帽を被った犬のキャラクターが、みるみる内に赤い液体に埋もれていく。
このキャラクターは両手を挙げて万歳のポーズを取っているため、見方によっては血の池に飲み込まれていく図にも見える。
片や綺麗な満月、片や血の池地獄に溺れる犬。
非常にシュールというか、風情も何もあったものではない。
やはり、今度それらしいグラスを買ってこようかな。
むむむ、と唸る。
まあ、容器はアレでも、今はこんなにも素晴らしい満月を拝めるのだ。
それだけで十分に贅沢というもの。
だから、今夜はこのマグカップで一足早いお月見と洒落込もうじゃないか。
一足どころか優に二ヶ月は先取りしてしまったのだけれど、まあ別にお月見は秋だけの物ではないのだし。
カップ一杯に並々とワインを注ぎ終えると、零さないよう慎重に窓の外へ向けて差し上げる。
「綺麗なお月様に乾杯……なのです」
自分で言っておきながら、その猫かぶりな口調に可笑しくなってしまう。
私自身この口調は嫌いじゃないのだけれど、周りの人の目にはどう映っているのかしらね?
そんなことを考えながら、カップをそっと傾けてワインを一口含む。
途端にふわっと芳醇な味わいが口の中いっぱいに広がった。
こくん、喉を鳴らせば液体が喉をゆっくり流れて行き、通った部分が仄かに熱を帯びる。
美味しい。
容器や風情云々を完全に忘れさせてくれる位に、このワインは美味だった。
口の中で香りを楽しむように、もう一口。
柔らかな月光に誘われる様に空を仰げば、すぐそこには極上の満月。
最高じゃない。
沙都子には悪いが、これだから飲酒は止められない。
もう一度口に含んでから、ふと横を見る。
沙都子が掛け布団を蹴飛ばして、お腹まで出しながら眠っていた。
それを見た私は思わず噴出してしまう。
その姿はお世辞にも本人が目指しているようなレディーには程遠くて、けれど年相応の姿よね。
私はそんな彼女がとても素敵だと思う。
こっちの方が似合っている、何て本人に言ったら怒られるでしょうけど。
一度マグカップを床に置き、笑い声を殺しながら、沙都子を起こさないようにそっと服と布団を直してあげた。
ぽかーんと口を開けて夢を見ている彼女はとても愛らしくて、つい額を撫でてしまう。
柔らかなおでこを守るように掛かるさらっとした前髪から、ふわりとシャンプーの香り。
穏やかな顔で眠る彼女は、一体どんな夢を見ているのかしら。
悟史と遊んでる夢とかだったらいいわね。
沙都子は今でも悟史を待ち続けて、少しでも立派になって兄を迎えようと、こんなにも小さな身体で頑張っているんだから。
せめて夢の中で位は、ね。
それは目が覚めるまでに限定された泡沫の時間だけれど、今はそれで我慢して。
決して遠くない未来に、二人は再会出来るから。
診療所の裏事情を知ってしまった今、それは願いから確信へと変わっていた。
私もその時がとても待ち遠しい。
だって私は、その時やっと本当の意味での沙都子の『幸せな笑顔』を見ることが出来るのだから。
だから、そう。
「悟史、早く帰ってくるといいね」
もう一度沙都子の額を撫でて微笑んだ私の脇腹に、強烈な打撃が入った。
突然の事に驚いた私は、思わず小さく悲鳴を上げてしまう。
すぐにハッとなって口元を押さえ、沙都子の寝顔が変わらず穏やかな事を確認すると、恨みを込めて打撃の飛んできた方向を振り返る。
「……くー……くー…」
薄っすらと涎を垂らしながら眠りこける羽入がそこにいた。
掛け布団は完全に剥がれて明後日の方向に放り捨てられており、本人お気に入りの唐草模様の浴衣は乱れに乱れて、無造作に放り出された(私を蹴っ飛ばした)足の隙間からは微かに白い下着が覗いている。
圭一辺りがこれを見たなら喜びそうなものだけれど、百年も同居している私にしてみれば、これは最早色気を通り越して挑発に思えてくる。
これがもし沙都子だったなら、この上ない愛しさを覚えるだろう。
だが羽入となると、そうはいかない。
色々忘れたい記憶や抹消したい赤裸々な過去の全てを知られているだけに、一歩離れた所から微笑んで流す余裕など一片たりとも有りはしないのだ。
再び羽入が寝返りを打つ。
彼女の浴衣の裾は完全に捲れていて、もう言葉も出ない。
一瞬、この姿を写真に収めて学校中にばら撒いてやろうかとも思ったが、さすがにそれは酷だろう。
だから、優しくて寛大な私は、もっと生温い手で反撃をして差し上げるのだ。
音を立てないようにゆっくりと台所へ行き、冷蔵庫のチルドルームから『懲罰用』のラベルが貼られたパックを取り出す。
蓋を開けた瞬間、辺りに鼻を刺すような臭気が漂った。
そのパックは容器の半分を真っ赤な液体が埋めており、それに漬かるように沈んだ薄っぺらい葉が数枚。
その数枚の中から、特に漬かりが良く、葉の分厚い一切れを選んで摘んだ。
そして、羽入の鼻の下に乗せる。
途端に羽入の寝顔が険しいものになり、なにやらうーうーと呻き声を上げ始めた。
効果覿面のようだ。
単に乗せただけでは寝返りをした際簡単に落ちてしまうので、幾重にもセロテープを貼り付けて頑丈に固定する。
するとどうだ、何ともユニークな顔をした羽入が誕生した。
「恨むなら自らの寝相の悪さを恨みなさい」
涙目になって苦しそうにもがく羽入を尻目に、私はマグカップ片手に再び甘美な時に身を委ねる事にした。

 

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