都会の喧騒に包まれて、今想うのは我が故郷。
改めて感じる。この街は私が住むには聊か騒がしすぎた。
この春で、私がこの街に越してきて二ヶ月になる。
しかし、日に日に私の心は恰も深い泥沼に沈み込むかのように、暗く憂鬱なものとなってゆく。
都会という名の、漠然とした煌びやかなイメージに憧れて上京した私にとって、現実は余りにかけ離れていたのだ。
街を歩けば人々の好奇の視線に晒され、挙句の果てに足蹴にされてしまう。
そんなに田舎者が珍しいのだろうか。
大きな憧れを持って訪れたこの地は、よそ者に対して余りにも排他的であった。
今はただ只管に故郷が愛しい。
ギュッギュッと音を立てて崩れる氷塊。
同胞たちを優しく照らす暁のカーテン、オーロラ。
ナンキョクオキアミの踊り食い。
帰りたい。故郷に帰りたい。
「あれ?」
ピコピコと点滅する信号を駆け足で渡りきると、いきなり背後から鷲づかみにされた。
ふわっと鼻に付く香水の匂い。
――またか。
抜け出そうと必死にジタバタと抵抗するものの、いかんせん体格差があり過ぎる。
すぐに抵抗する気力も失せ、私は渋々その腕に体を任せた。
「え、マジ?これあざらしぃ?可愛い〜
顔にイカスミを塗ったくったような女が、あろう事か私の顔に頬擦りをしてきた。
何と厚かましい奴だ。
しかし、力では敵わないので、奇声を発して嫌がらせてやることにする。
「もきゅ〜
「やーん、鳴いた〜抱っこしても大丈夫かな?……うわ、ふかふか〜♪」
「きゅっきゅ〜ん♪」
「次私にも〜!」
魂込めて絶叫するものの、どうも効果が薄いようだ。
もしかすると、顔に塗ったイカスミ(?)がバリアの効果を果たしているのかもしれない。
何と恐るべき種族。
今度から、街を歩く時は漂白剤を持ち歩かねばならんな。

 

その後たっぷり半刻ほどイカスミ娘に遊ばれた私は、心身ともに疲れ果てて帰宅した。
ちなみに、自慢だが私の家は高級マンションだ。
2DKの日当たり良しで築3年、駅まで徒歩5分でスーパーや100均も近くにあるという、都内有数の好立地であるのにも関わらず、家賃が月2万円という破格のこの物件。
かと言って、裏が墓地だったり部屋に欠陥がある訳でもなく、住み心地も上々だった。
都会に出る際の悩みの一つが家賃だったので、正直これにはかなり助かっている。
気が付くと部屋に居座っていた全身血だらけの男も、最初は何事かと思ったが話してみると中々味のある奴で、今では気の合う茶飲み友達だ。
「よう、アシベ。遅かったじゃねぇか」
自室の襖を開くと、血だらけの男――創平がニカニカと前歯を見せて笑いながら、茶菓子がこれでもかと盛られた盆をこちらへずいっと差し出した。
盆の上に盛られた最中、煎餅、落雁など色とりどりの和菓子は、今にも崩れそうな山を成している。
俺は手早くスーツをハンガーにかけ、その山の一つを取り口に含んだ。
「悪いな、小娘に囲まれて時間食っちまった。そして創平、アシベは人間の方だ。あざらしではない」
言いながら食器棚から二人分の湯のみを取り出し、テーブルの上から真新しい茶葉の袋を掴む。
続けてポットから急須に湯を入れて、少し温めた後に流しに捨てる。
計量スプーンできっかり二人分の茶葉を急須に入れ、再度急須に湯を注ぐ。
そして二分ほど待てば美味い日本茶の出来上がり。
後は二人の湯飲みに、均一の濃さになる様に淹れてやればいい。
大事なのは最後の一滴まで湯飲みに注ぐ事。
そうすれば鮮やかな緑になり、深みが増す。
我ながら完璧な日本茶道である。
慣れたもので、今ではガイドブック無しでも完璧な日本茶を淹れられるようになっていた。
最もあざらしの俺が日本茶道をマスターするハメになったのは、今まさに目の前で茶の出来上がりを待っている男のせいなのだが。
なにしろこの男――創平は、無類の日本茶好き。
寝ても冷めても茶。茶と茶菓子さえあれば生きていけると本人は豪語している。
しかも中途半端に目が高く、コンビニのホット緑茶は受け付けないときた。
無断で居ついた居候の癖に何を生意気な、と思ったのだが、こいつが何処からか仕入れてくる和菓子はどれも高級な物ばかり。
中でも土留め堂の『メイド風大福』は絶品だ。軽く百個はいける。
俺も和菓子は嫌いじゃないので、それらの和菓子(主にメイド風大福)を代価に住まわせてやっているという訳だ。
「かー!羨ましい限りだなそいつぁよォ!」
「俺はあざらしだからな、人間の女には興味がないんだ。例えればお前がメスのなまずと付き合うようなもんだぞ」
「お前の視点だとそんな風に映ってんのかよ……」
差し出した湯飲みを渋い顔で受け取る創平。
猫舌な創平は、何度も息を吹きかけて冷ましながら口に運び、啜る。
「でもよぅ」
「ん?」
「側にいてくれるならよ、それでもいいかもしれねぇな」
「……創平?」
「いや、何でもねぇ」
まだ十分に冷めていないであろう緑茶を一気に流し込み、創平は咽た。

 

眠らない街東京とはよく言ったものだ。
ベランダから見下ろす黒い街は、カラフルな電飾で飾り付けられ、まるで夜の海を泳ぐホタルイカの群れのようだった。
俺はコートの内ポケットからメザシを取り出すと、口に含みもしゃもしゃと咀嚼する。
「……湿気ってやがる」
夜風がそっと頬を撫でるが、モヤモヤとしたこの気持ちを連れて行ってはくれなかった。
どうも気になる。
創平は何気なく言ったあの一言には、何だかそれ以上の意味がある気がしてならなかった。
あの言葉を呟いた創平の横顔には、フッと陰りが見えたからだ。
創平と知り合って二ヶ月だが、あんな顔は初めて見る。
俺に隠し事?
いや、それ以前に俺は、同居していながら創平の事をほとんど知らない。

初めて奴に会ったのは、今からちょうど二ヶ月前。
つまりこっちに越してきた当日だ。
奴の第一印象はとにかく『不審者』だった。
何せ、入居初日に買出しから帰ってくると、既に部屋にいたのだから。
家主の俺などお構い無しに寝っ転がり、和菓子片手にマルメンライトをふかす、傍若無人な男だった。
おまけに体中が血だらけときた。訳がわからん。
身に纏った軍服から、辛うじて軍人だと言うことだけはわかったのだが。
奴が俺に気づいて話し掛けてこなかったら、本当に通報するところだった。
俺が思いっきり警戒し狼牙風風拳の構えを取っていると、それに気づいた奴が慌てて駆け寄ってきた。
「これやるから、今日からここに住ませてくれねぇか」
そう言って奴が差し出したのは、『スーパーにゃんにゃんアイドル雅ちゃん1/4フィギュア』
「そんな物で俺が釣られるとでも思ったか」
「受け取ってんじゃねえか」
早速雅ちゃんをテーブルの上に飾る俺。
「まぁいいや、同居人同士仲良くしようぜ」
取って付けた様に、奴は自らの名を創平と名乗った。
そして、それ以外のことは何も知らない。
創平は自分のことを話そうともしなかったし、俺も訊こうとはしなかった。
何せ関わったらロクな事がなさそうな風貌してやがるからな。
だから、悪いが創平には必要以上に関わらない事にした。
まず最初の一週間は完全無視を決め込んだ。
話しかけられようが、尻尾を掴んで引きずられようが、相手にしない。
二週目も然り。しかし、段々それも辛くなってくる。
何せ創平の野郎は、部屋から一歩も外に出ようとしないのだ。
一度偶然を装って部屋の外に突き飛ばしてみたものの、敷居を越えた瞬間、創平の姿が煙のようにフワッと消えてしまった。
直後、何事も無かったように俺の真横に寝転がっている創平。
何なんだこいつは。
部屋の外に出る気がないんだか、出られないんだか。
かと思えば、俺が仕事から帰ると山の様に和菓子を集めて貪り食ってやがる。
一体どうやって手に入れてるんだ。
そして三週目、ついに俺は奴に話しかけてしまった。
「家賃払えよ」
「くぁーっ!やっっっと話し掛けてきたと思ったら、いきなりそんな事かよ!」
「大事なことだろ。お前は他人様の部屋を一畳程不法占拠してるんだからな。しかも和菓子を一つもよこさない」
和菓子の辺りでギロリと創平を睨むと、創平はやれやれと肩をすくめ、観念した様にごそごそとポケットを弄り始めた。
「ほれ」
そう言って創平が右手を差し出し、その中身を床に置いた。
深い緑色の粉末が、畳の目と混じりあう。
「……何だこれは」
「見ての通りだ」
「茶葉か」
「茶葉だ」
俺は創平に向けて渾身の右ストレートを繰り出した。
しかし運が悪かったようだ、手が届かない。
創平は俺の額を小分け最中の空き袋でペシペシと叩きながら言った。
「まぁそうカッカするな。これは高級茶葉なんだ」
「ほう、何という名だ」
「おーいおち――ふべらっ!」
最後まで言わせず尻尾で殴り飛ばした。
俺のテールアタックをまともに顔面に喰らった創平は、勢い良く窓ガラスを突き破って落下していった。
「やっと消えたか」
「とりあえず茶ー淹れてくれ」
「何故いる」
数秒前に四階の窓から落下したはずの創平が、既に俺の後ろで煎餅を齧っていた。
しかも創平の体には、傷一つ見当たらない。
「まじかる☆まーじっく」
親指と小指を立て、ウインクをする創平。
そのキラキラと輝く眼を見て、俺は理解した。
やはりこの人物は相手にするだけ無駄だ。

――それが今では茶飲み友達だから、つくづく人生というものはわからない。
十本目のメザシを飲み込んだとき、部屋から『ぐがごごご』とムードを無遠慮に劈く創平の鼾が聞こえてきた。
こいつはつくづく俺の時間を潰してくれやがる。
俺はポケットから十一本目のメザシを取り出し、勢いよく創平の顔目掛けて投げつけた。
「ごごご……へぐっ!」
クリーンヒット。
俺の掌から矢の様に放たれたメザシは、創平の喉笛に突き刺さり、創平は激しく咽ながら飛び起きた。
「な、なんだなんだぁ!?」
寝惚け眼を擦りながら、創平が辺りキョロキョロと見回す。
すかさずカーテンの裏に隠れる俺。
創平は胸元に落ちているメザシをしばらく訝しげに見つめていたが、やがて再び布団に潜り寝息を立て始めた。
我ながら完璧なミッションコンプリートだぜ。
さて、明日も早い。
俺も床に付くことにする。

 

翌朝目覚めると、部屋に創平の姿はなかった。
何と珍しいことだ、どこかに出かけたのだろうか。
まぁ静かに越した事は無い。
久しぶりの静かな朝を満喫する事にした。
――ところが創平は夜になっても現れなかった。
それどころか次の日も、その次の日になっても一向に姿が見えない。
一週間を過ぎると、さすがに心配になってきた。
なんてことは全くなく、かえって落ち着く。
何せ、元々ここは俺の部屋なのだから。

「ほっほっほ、今朝も清清しい目覚めである」
俺はコロコロと畳を転がりながらキッチンヘ。
機嫌の良い俺は、そのままプレスリーの鼻歌なぞ歌いながら、軽やかにモーニングコーヒーを淹れる。
ふわっと部屋に広がるコーヒーの香りが、何とも心地よい。
ほかほかと湯気を立てるコーヒーのマグカップをそっと頭に載せ、溢さない様ゆっくりと慎重に居間へと這った。
ところが途中でクシャミをしてしまい、マグカップが勢い良く前方に吹っ飛んでいってしまった。
「……は?」
しかし、どうした事だろう。
前方に飛ばされたマグカップは、途中の何も無い空間で、まるで見えない壁にぶつかったかのように跳ね返ってきた。
「熱っちぃぁぁぁぁぁ!!」
そしてどこからか聞こえる、謎の奇声。
この声はどこかで聞いたことのある、というか聞き飽きた声というか。
とにかく、この部屋には俺のほかに『何か』がいる。
その証拠に、俺の前方数センチの空間が、零れたコーヒーで茶色く色付けされていた。
その空間から、まるで壁を伝うかのようにつーっとコーヒーの雫が滴り落ちる。
「何しやがんだアシベ!」
「アシベは人間の方だと何回言ったら……って、お前創平か?」
「見てわからんのか!」
「見えんわ!」
目の前の茶壁は、のしのしと部屋を徘徊して俺の荷物を物色し始めた。
そして一枚のタオルを掴み取ると、自らの色をふき取り始めた。

「……つまり何だ。この一週間お前は外出してた訳じゃなく、姿が見えなかっただけと。ずっと部屋にいたと……そういうことか?」
「おう」
所々薄茶色の奇妙な物体が大きく頷く。
俺が出した煎餅が空中でバリバリと砕かれている様は、何とも異質だ。
「なら何故ずっと黙っていた」
「いろいろ考え事をしてたんだよ」
何とも人の悪い野郎だ。
つーことは、俺が一人であざらし女優のエロビデオを見ていた時も、一人しりとりで盛り上がっていた時も、自作恋愛ポエムを書いていた時も、
こいつはずっと部屋にいたと言うのか。
冗談じゃねえ。
「実はな……黙ってたんだけど俺、自縛霊らしいんだ」
「知らねえ」
「何だか成仏しかかってるみたいでよう、それで透明に――」
「そんな事聞いてねえ」
「んだよ態度悪ぃなァ」
怒り心頭で話どころではなかった。
部屋にいるのは一人だと思って、散々やりたい放題してしまったではないか!
あざらし女優の眉毛アップシーンを何度も撒き戻して見ていた事や、一人しりとりの「る」が思い浮かばなくて延々唸っていたところも見ていたと!
よくも俺のプライベートを。
眉毛フェチで何が悪い!
俺は怒りに身を任せ、茶壁に向かって吐き捨てた。
「成仏しそうなら、俺止めないから」
だからさっさと成仏してくれ。

 

翌朝目を覚ますと、枕元に二枚のメモが置いてあった。

 

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